会員さんやその他の方々の貴重な経験談や想いなど、これは!と思う話を掲載!
1994年(昭和19年)1945年(昭和20年終戦の年)ミッドウェイ海戦以後、日本の敗色は濃厚になり、ガダルカナル島、テニアン、サイパン、フィリピン、レイテ島で日本軍は全滅、国内では、京都・奈良を除く主な都市が焼け野原になり、軍需工場
は鉄骨が無惨な姿をさらし、国民の厭戦気分が高まり、工場もなく青天(あおてん)といって土手で昼寝をして家に帰るような人もいました。
は鉄骨が無惨な姿をさらし、国民の厭戦気分が高まり、工場もなく青天(あおてん)といって土手で昼寝をして家に帰るような人もいました。
その頃私、機関車乗務をしていました、行く先々で空襲にあい岐阜市の焼けたときも岐阜駅におり、焼夷弾の降る中、ひっぱれるだけ、客車をひっぱって長森の駅まで来ました、岐阜の街の燃える炎で空まで赤くなり、B-29がハッキリと見え、田のあぜ道を、背に荷物を背負った、人々が列になってつづきました。
もうその頃日本は制空権も制海権もなく、日本近海に来た空母からグラマン-P38戦闘機が連日のように飛来し機銃による攻撃を受け、私たちの機関区も攻撃を受け2名の命が失われました、多治見でも旅客列車が攻撃を受け太田の薬局の息子さんも犠牲になりました
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